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韓国俳優キム・ミョンミンに関するインタビューや記事の日本語翻訳ライブラリー
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六龍が飛ぶ 鄭道傳の生涯wiki翻訳

정도전의 생애 チョン・ドジョンの生涯 (Wiki翻訳)⑤ 完

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代は少し戻って、チョン・ドジョンの最後まで・・・・

それにしてもイ・ソンゲ、前妻との間に王子が6人、後妻に2人。
くわえて王女が5人も!
子だくさん~だけに跡継ぎ問題もこじれますね(*_*)

遼東(満州)征伐計画

1392年建国直後から、彼は遼東征伐(1392)を計画する。 1396年遼東征伐の方策として、彼はそれまで各地域の王室の側近と開国功臣らが私的に保有していた兵士をすべて廃止し、国の正規軍に改編しようという私兵廃止を断行した。すると私兵を中心に政変を企てようとしたイ・バンウォンは高麗維新グループをまとめ露骨に反感を持ち逆襲の機会を抱くようになった。同時にイ・バンウォンはチョン・ドジョンを排除するために、明に行く使臣ハ・リュン、ソル・ジャンスなどをはじめとする反感を抱いた人たちを扇動し、密かにチョン・ドジョンが遼東征伐を画策しようとしていると密告した。

1396年(太祖5年)3月、チョン・ドジョンは科擧考試官に任命され、辞退したが受け入れられなかった。同年5月曹由仁(チョ・ユイン)、イ・チなど33人を選抜した。

1396年7月27日奉化伯に封爵(官職と爵位を授けること)された。 1397年(太祖6年)3月尙瑞司判事として同じく尙瑞司判事であるチョ・ジュンと共に内監と宮女の爵号と品階を定めた。 1397年、明の謝恩使が持ってきた咨文で明は彼を「朝鮮の禍のもと」と指摘した。同時に朝鮮朝廷にチョン・ドジョンを解任し遼東征伐を停止するよう警告した。チョン・ドジョンは遼東征伐を目的とし明と戦うために、王族と複数の豪族から没収した私兵らを新たに新設した義興三軍府に併合した後、彼が作った陳圖に基づき大々的な軍事訓練を実施した。これらのチョン・ドジョンの改革と明との戦争準備は、同じ開国功臣であるチョ・ジュンなどの反発を呼び起こし最後には彼と決別するようになってしまう。

遼東征伐計画失敗

同年4月遼東征伐計画を明に漏らしたソル・ジャンスとクォン・グンの問責を要求したが、不問に付され王が受け入れなかった。 6月チョン・ドジョンは確保した兵力でナム・ウンと共に楊州牧場で大々的な陣圖訓練をしながら李成桂に出兵を要請したが、この時、チョ・ジュンの強力な反対で実行できなかった。その年の12月に、再び東北面都宣撫巡察使となり、州郡の区画を確定して城堡を修理しており、密かに人を派遣して平安道、咸鏡道一帯の人口数と軍官の数を調べして戻ってきた。

その年の10月嘉禮都監提調に任命された。

1398年の初め、彼は王に尚武精神を養成することを提案し、兵法と陣法の訓練を強化しながら遼東征伐の準備を終えている。すぐに彼は節制使を廃止して官軍に組み入れ、私兵をすべて押収し、王子と功臣たちが分けて担当していた軍事指揮権を剥奪させて、個人が抱える私兵集団を国家に帰属させることを太祖に提案した。

政変と最後

1398年(太祖7)旧暦8月、彼は明の皇帝朱元璋が自分の息子を辺境に送ることを容認しイ・バンウォンは全羅道に、イ・バンボンは東北面に送らねばならないと提案し太祖の承認を得た。しかし、イ・バンウォンは派遣を拒否しミン・ムグ、ミン・ムヒュルなどと共にチョン・ドジョン暗殺を画策した。

10月6日(旧暦8月26日)チョン・ドジョンはソンヒョンにあったナム・ウンの妾の家で、ナム・ウン、シム・ホセン、イ・ジクらと会って酒を飲んだ。彼がナム・ウンの家で酒を飲んでいるという情報を入手したイ・バンウォンはすぐに少数の刺客を率いて、ナム・ウンの妾の家に向かう。

チョン・ドジョンは、神德王后カン氏が生んだイ・バンソクを世子に立てた事により、イ・バンウォンと対立することになった。これに恨みを抱いたイ・バンウォンは、ハン氏のすべての王子を宮に呼んだ後、神德王后の王子を殺す計略を立てた濡れ衣をチョン・ドジョンに被せて殺害した。しかし、イ・バンソクの世子冊封はチョン・ドジョンではなく、太祖・李成桂がしたことであり、チョン・ドジョンが王子らを暗殺しようとした計略の実体は事実無根である。

「朝鮮王朝実録」によると、最後に至ってチョン・ドジョンは、自分の命を請うたと記録しているが、勝者の立場でイ・バンウォンが彼を卑劣な人物として貶めたものである。しかし「朝鮮王朝実録」の後半にこれと非常に異なる内容を載せた。

チョン・ドジョンの息子:「父上、今出て行かれたら殺されます。」
チョン・ドジョン:「かまわぬ。私もかなり長く生きたが私は殺される理由は一つもない。」


また、「三峰集」には、彼がイ・バンウォンの剣で切られる直前、自分の人生の最後を整理する「自嘲」という詩を残し英雄豪傑な面貌を如実に示している。

操存省察兩加功/志を維持し自分を省みる両方に励みつつ
不負聖賢黃卷中/聖賢の教えを裏切ることなく、
三十年來勤苦業/30年をも苦労し勤めてきたが
松亭一醉竟成空/それらすべてが松亭の一杯の酒で空しく過ぎ去ってしまったなあ。


チョン・ドジョン、自嘲

チョン・ドジョンの二人の息子チョンヨンとチョンユは父を救うために駆けつける途中殺害され、しばらくして甥の鄭澹(チョンダム)は伯父といとこの死の知らせを聞い家で自害した。長男チョンジンは当時太祖を随行して、三聖齋訪問の道を随行しながら、安辺郡ソクワン寺に滞在していて奇跡的に助かった。



以上で終了です。
結局、チョン・ドジョンは1392年に朝鮮を建国し、あらゆる国の制度を制定し
城まで築き・・・
1398年10月6日、56歳で無念の死を遂げます。
たった6年の間に彼が成し遂げた偉業は評価されて当然ですね!
(イ・バンウォンの政敵であったため、長らく反逆者として扱われていた)

そしてこのような妥協を許さない熾烈な性格~^^;;;を演じさせたら世界一!

ウリペウ ファイティン!
김명민님 화이팅!!!


あ、それとこんなつたない訳ですみません。(^^ゞ
間違い(とくに漢字が)が多々あると思いますがお許しを~
大きな間違いが見つかったら都度修正いたします。
お気づきの方、ご一報いただけると助かります。


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