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韓国俳優キム・ミョンミンに関するインタビューや記事の日本語翻訳ライブラリー
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六龍が飛ぶ 鄭道傳の生涯wiki翻訳

정도전의 생애 チョン・ドジョンの生涯 (Wiki翻訳)④

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ルバーウィークですね。
皆さんはお出かけでしょうか?
私はおうちでこもってます^^;;
お天気もいいし、どこかでかけようかな・・・・

その前に昨夜の続きを!

しっかし、チョン・ドジョン先生、寝てないよね。これきっと。
寝てない・・・寝る暇ないでしょ・・・

国防力の強化と明との葛藤

1395年1月鄭摠などと一緒に「高麗國史」を編纂。朝鮮創業に成功したチョン・ドジョンは、世子冊封に続く新しい国の文物と制度の整備に着手した。 6月には、国の統治規範である「朝鮮開国典」、中国と韓国の歴代帝王の治績を盛り込んだ「経済文鑑」と「経済文鑑別集」などの編纂を主導し、新しい国政の大要と管制など、すべての制度と文物の枠組みを準備した。また、「経済文鑑」と「経済文鑑別集」には、政治制度・宰相・臺官・諫官・府兵制度・監司などの業務と人事、行政、実務を論じた。続いて国防力の強化と高句麗古都修復のための工兵制度を導入、群の統帥権を国に帰属させるため、私兵を廃止した。また租税受給の安定を通じ国家財政の健全性を確保するために耕者有田の原則に立脚した科田法を断行するなど革新した。しかし、過度で急進的で、一方的なチョン・ドジョンの政策に対して太祖は彼の上訴を受け入れるのをためらったし、徐々に反発する人が増えていった。

1395年3月には再び判三司事に復帰した。

1395年、一部の反発勢力による国家機密漏洩により余裕のない朝鮮は明との外交紛争に足首を掴まれてしまった。新興国朝鮮の一新を警戒した明の皇帝朱元璋(チュウォンジャン)は朝鮮の正朝表箋の文言に明を冒涜する文句があることを問題視して太祖にチョン・ドジョンを自分に渡すように要求した。これに太祖はチョン・ドジョンは病気にかかったとか、歳とっているなど、さまざまな理由を言って明の召喚に応じなかった。しかし、朱元璋は継続して、彼の召喚を要求し、これを補うための措置として門下侍郞贊成事をはじめとするすべての公職から退き東北面都宣撫巡察使として起用された。


漢城府の都市整備
遷都が確定し断行された頃、彼は明に使節として往来し、1394年から2年間、チョン・ドジョンは漢城府の都市整理を推進した。

1395年(太祖4年)には、都城築造図鑑という官廳 を設置、城を築くための基礎測量をするようにしており、総責任者は、チョン・ドジョンがなった。 1396年から築城を始め、1年で完成した。ペガク山頂上を起点にして、東に漢城府市内を回ってペガクに至る城郭は5万9千5百尺(18kmぐらい?)、そのうちの土城が4万3百尺、石城が1万9千2百尺、高さ40尺2でチョン・ドジョンは、この数値を正確に計算、把握しており、工事期間は、夏と冬に農繁期を避け、2期に分けて工事を行った。工事は2年で完工した。

生涯の後半
イ・バンウォンとの葛藤

チョン・ドジョンは、自他公認の海東(朝鮮のこと)の張良(中国の政治家であり軍師)というあだ名を持っていた。彼は自分と李成桂の関係を高祖劉邦と彼の参謀張良に例えたが、劉邦が張良を利用したのではなく、逆に張良が劉邦を利用したという話を必ず付け加えた。この話は劉邦が張良を利用して漢を建国したのではなく張良が劉邦を掲げ、自分が希望する帝国を建設したという意味で、自分も太祖を掲げ、自分が希望する新しい王朝を建設したものであり、朝鮮建国の実質的なプランナーが、まさに自分という意味である。しかし、このような彼の主張は、ポウン鄭夢周(チョン・モンジュ)などを排除したイ・バンウォンをはじめとする王子たちの反発を招くことになった。

チョン・ドジョンは、王様は世襲される責職であるため、愚かな王が出てくるかもしれないと予想した。チョン・ドジョンは、幼い世子パンソグを教育し、宰相が中心となる王道政治(宰相政治)の実現を夢見たが、王権と自分の立場が弱体化していることを恐れたイ・バンウォンは後日兵を率いて急襲し、チョン・ドジョンを殺害し、加え世子パンソグも殺害した。


これだけ、急激に改革を進めたら、反発もくらうでしょうね・・・
理想に燃えて次から次へと・・・
しかしながら人心を掌握できなかったのが彼の弱点だったようですね。

最近、思うんですけど
・仕事がすごくできる
・人のマネジメントが上手にできる

この二つが両方できる人ってまあ、いないんだなあと・・・


Wiki翻訳は続きます・・・・




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