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韓国俳優キム・ミョンミンに関するインタビューや記事の日本語翻訳ライブラリー
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六龍が飛ぶ 鄭道傳の生涯wiki翻訳

정도전의 생애 チョン・ドジョンの生涯 (Wiki翻訳)①

ミョンドジョンナオシオmono500

本のウィキペディアにも3ページ分の要約がありますが、
ここはひとつ!(ポン!)←机をたたく音^^;;
本家のWikiを訳してみようと思い立ちました。
ページ数で約10数ページ。
子供の頃はちょっと飛ばしまして、科挙合格から最期の瞬間まで・・・・
少しずつ訳してあげますので時間かかります。
なにせ、この官職の固有名詞のややこしいことと言ったら!あ~た!(ポン!)←机をたたく音^^;;;
歴史ドラマの字幕翻訳がどれほど大変か・・・・(*_*)

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정도전(鄭道傳, 1342年誕生~1398年 10月 6日(陰暦 8月 26日)イ・バンウォン配下に殺害される)
※日本は・・・足利尊氏が室町幕府を開いたのが1338年(日本史も勉強しないと(^^ゞ)

科擧及第と官僚生活初期
恭愍(コンミン)王の時代1360年(恭愍王9年)成均試に合格したのに続き、2年後に1362年文科同進事に合格し1363年官職に就いた。その年忠州司録충주사록を経て典敎寺主簿전교시주부・通禮門祗候통례문지후を務めた。その後、成均館で鄭夢周(チョン・モンジュ)と明倫堂で儒学を論じ儒生たちを育成、成均館博士、太常博士などの要職をあまねく経て出世をした。

しかし、彼の役人暮らしは順調ではなかった。恭愍王が辛旽(シンドン)を起用すると、彼は官職を捨てて三角山旧家に都落ちして隠遁生活をし、父チョン・ウンギョンと母タニャン ウ氏が1月と12月に相次いで逝去しヨンジュで3年間墓守をしながら学問研究と教育に力を注いだ。当時の官僚と知識人たちは百日忌み明けが一般的な慣行であったが、彼は家礼に応じて3年喪に服した。 1369年秋、親の3年喪を終え三角山旧家に戻ってきた翌年12月、官職に復帰した。

辛旽(シンドン)の死と成均館講学
1370年成均館を再建して、その年、師首はイセクが大司成になると、彼は師匠イセクと友人の推薦で成均館博士となった。成均館の博士でありながらポウン鄭夢周(チョン・モンジュ)ら教官と毎日のように明倫堂で性理学を授業、論じた。再び70年禮曹正郞 兼 成均太常博士となり銓選(官職選考制度)を管掌した。また、権門世族を警戒し、新しい人材を探していた侍中シンドン(僧侶)によって新進士類が重用され、彼もやはり要職に座っていた由縁で、シンドンの一派として追い込まれたりもした。彼は危険を冒してシンドンの死を哀悼した。 1371年太常博士に任命され、再び禮曹正郞になり太常博士を兼任した。

シンドンが排除された後もチョン・ドジョンは、起用されたが1374年(恭愍王24)ホンリュンなどに恭愍王が殺害され、親明派に属していたドジョンは、再び政治的危機を経験した。その後の政局は親元派と親明派が対決していた。この時、彼は成均館で性理学を講学しながら、一方では、鄭夢周などと一緒に明との外交関係を深めることを主張した。

以降、彼は恭愍王の腐敗と堕落を擁護したり、黙認する権門世族が王の目と耳を覆い隠すと批判を加えた。 1374年恭愍王がホンリュン等に暗殺されるや、彼が事実を明に告げることを主張したがイ・イニムなどの恨みを買った。

親元派、権門との葛藤
この時、彼は富と権力を独占した権門から田畑などの農地は、実際に農作業を建てる農民に与えられるべきだと主張して権門の怒りを買った。また、彼は寺院経済の膨張と乱れが政治、経済、社会の弊害が深刻すれば、仏教の排斥を主張した。

1375年(ウ王1年)成均司藝성균사예·・知製敎지제교になった。同年元朝使者が来たときに元の時代の使者を迎え入れる問題で朝廷では、新進士大夫신흥사대부と権臣たちの間で対立が起こった。イ・イニムとジユンなどは使者を迎え入れようと言ったのに対し、ドジョンをはじめとする新進士大夫はこれに反対した。しかしイ・イニムなどは、彼らの主張を退け、北元の使者を迎える準備をした。イ・イニムはチョン・ドジョンを迎接使として任命し送ろうとした。しかしチョン・ドジョンは、使者迎接を拒否した。
こうした中、北元使者を迎える迎接使として名指しされた人物はドジョンだった。チョン・ドジョンは、使者の首を刎ねるか、さもなければまとめて明に送り返してやる。」と意志を曲げなかった。イ・イニム・慶復興などが親元政策に戻そうとして元の使者が明を打つための合同作戦を考え、朝廷に働きかけると、チョン・ドジョンはこれに反対した。そしてドジョンはイ・イニム、軽復興などの権臣の怒りを買って羅州の属県である會津縣 居平部曲회진현 거평부곡に流刑された。流刑地で彼は性理学に関連する書籍を研究し、同里青年子弟らに学問を教えた。

流刑にむち打ちまで合うところだったが、同じくして起こったソッキの乱のために余裕もなく杖刑は受けなかった。

流刑と学問研究
流刑になった中彼はいろいろな種類の人身誹謗に苦しめられた。彼が落馬すると四方からその誹謗が絶えなかった。彼はそのような誹謗はつまらないやからのすることだと軽く受け流した。しかし、彼を憎らしく思う妻の手紙を受け取るようになった。

「あなたはいつも熱心に読書に没頭して、朝ご飯がなくなろうがお粥がなくなろうが構わない。家の中には少しの米もありません。たくさんの子供たちは、食事のたびにお腹が空いたと泣いて、凍える日は寒いと泣き叫びます。私が生計を預かって、その時々の手段を考えて苦心しながらも、あなたが熱心に勉強されるのでいつかは立身出世して、家の中の栄光を持って来ると期待していました。しかし、栄光どころか法に触れて名前を汚し体は南辺境に流され家門がつぶれました。世の人々の笑いものになったけれど、賢人、君子の人生とは本当にこのようなものですか? "
- 妻の手紙


「あなたの言うことがすべて正しい。昔の私の友人は、兄弟たちよりも情がより深かったが、私がこの状況になると、浮雲のように散ってしまった。これは、彼らが元来線で結ばれたのであって情で結ばれていないわけだから私は恨まない。しかし、夫婦は一度結ばれると、死ぬまで直すことができないのだから、あなたが私を叱責することは私を愛しているからであって嫌いではないものと私は信じている。また、妻が夫に仕えることは、臣下が王に仕えることと同じだからあなたが家を心配して、私が国を案ずることは何が違うのか?私はただ私の意に忠実にするだけだ。成否と栄辱と得失は天が定めるもので人にあることではない。私が何を憂うというのか? "
- チョン・ドジョンの返信


チョン・ドジョンは妻のせいにしていなかった。チョン・ドジョンは、妻に大義について語らなかった。ただし、自分の意のままに進むと、天が助けてくれることもあると言った。彼は自分を捨てた友人の愛憎は既に整理された感情だった。流刑地にいる彼に着実に安否を尋ね手紙を送り慰めてくれる友人は鄭夢周など少数であった。

釈放と教育活動
1377年に流刑から解放れ4年間 ソンヒャン ヨンジュとアンドン、チェチョン、ウォンジュなどを行き来しながら流浪し過ごした。その後1381年秋、居住が緩和されると三角山旧家に戻ってきた。1382年出家し「三峯齋」と呼び、学問と教育に力を注いだ

しかし、権門はチョン・ドジョンを危険人物として見て、警戒を緩めなかった。全国から多くの学生(弟子)が殺到し、教育の楽しさを享受したが、それもまた長くは続かなかった。ここの出身である宰相が三峯斎を壊してしまったからである。それで弟子たちを率いて富平副使のよしみを頼って富平部南村に引っ越し後世教育事業を再起したが、ここも宰相王某が別荘を構えると言って寮を閉鎖した。蔑視と迫害が続き、再び京畿道金浦に引っ越さなければならなかった。

流刑と流浪の歳月を通して鄕民と士友に物乞いをしたりもし、自から農業もした。この時、彼は貧困と飢饉で死んでいく民と彼らを搾取する権門世族の横暴と寺院経済の膨張で国家経営の存廃危機状況に直面し、一帯の改革の必要性を切実に願った。

奥さんとの手紙が笑える~こんな人旦那にしたのが間違いでしょ~
こんなに切実に訴えてるのに「私も国を案じておる。だからあなたと同じ」だって(笑)「暖簾に腕押し」。(@_@;)

続く~

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