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2017-03

정도전의 생애 チョン・ドジョンの生涯 (Wiki翻訳)⑤ 完 - 2015.09.21 Mon

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代は少し戻って、チョン・ドジョンの最後まで・・・・

それにしてもイ・ソンゲ、前妻との間に王子が6人、後妻に2人。
くわえて王女が5人も!
子だくさん~だけに跡継ぎ問題もこじれますね(*_*)

遼東(満州)征伐計画

1392年建国直後から、彼は遼東征伐(1392)を計画する。 1396年遼東征伐の方策として、彼はそれまで各地域の王室の側近と開国功臣らが私的に保有していた兵士をすべて廃止し、国の正規軍に改編しようという私兵廃止を断行した。すると私兵を中心に政変を企てようとしたイ・バンウォンは高麗維新グループをまとめ露骨に反感を持ち逆襲の機会を抱くようになった。同時にイ・バンウォンはチョン・ドジョンを排除するために、明に行く使臣ハ・リュン、ソル・ジャンスなどをはじめとする反感を抱いた人たちを扇動し、密かにチョン・ドジョンが遼東征伐を画策しようとしていると密告した。

1396年(太祖5年)3月、チョン・ドジョンは科擧考試官に任命され、辞退したが受け入れられなかった。同年5月曹由仁(チョ・ユイン)、イ・チなど33人を選抜した。

1396年7月27日奉化伯に封爵(官職と爵位を授けること)された。 1397年(太祖6年)3月尙瑞司判事として同じく尙瑞司判事であるチョ・ジュンと共に内監と宮女の爵号と品階を定めた。 1397年、明の謝恩使が持ってきた咨文で明は彼を「朝鮮の禍のもと」と指摘した。同時に朝鮮朝廷にチョン・ドジョンを解任し遼東征伐を停止するよう警告した。チョン・ドジョンは遼東征伐を目的とし明と戦うために、王族と複数の豪族から没収した私兵らを新たに新設した義興三軍府に併合した後、彼が作った陳圖に基づき大々的な軍事訓練を実施した。これらのチョン・ドジョンの改革と明との戦争準備は、同じ開国功臣であるチョ・ジュンなどの反発を呼び起こし最後には彼と決別するようになってしまう。

遼東征伐計画失敗

同年4月遼東征伐計画を明に漏らしたソル・ジャンスとクォン・グンの問責を要求したが、不問に付され王が受け入れなかった。 6月チョン・ドジョンは確保した兵力でナム・ウンと共に楊州牧場で大々的な陣圖訓練をしながら李成桂に出兵を要請したが、この時、チョ・ジュンの強力な反対で実行できなかった。その年の12月に、再び東北面都宣撫巡察使となり、州郡の区画を確定して城堡を修理しており、密かに人を派遣して平安道、咸鏡道一帯の人口数と軍官の数を調べして戻ってきた。

その年の10月嘉禮都監提調に任命された。

1398年の初め、彼は王に尚武精神を養成することを提案し、兵法と陣法の訓練を強化しながら遼東征伐の準備を終えている。すぐに彼は節制使を廃止して官軍に組み入れ、私兵をすべて押収し、王子と功臣たちが分けて担当していた軍事指揮権を剥奪させて、個人が抱える私兵集団を国家に帰属させることを太祖に提案した。

政変と最後

1398年(太祖7)旧暦8月、彼は明の皇帝朱元璋が自分の息子を辺境に送ることを容認しイ・バンウォンは全羅道に、イ・バンボンは東北面に送らねばならないと提案し太祖の承認を得た。しかし、イ・バンウォンは派遣を拒否しミン・ムグ、ミン・ムヒュルなどと共にチョン・ドジョン暗殺を画策した。

10月6日(旧暦8月26日)チョン・ドジョンはソンヒョンにあったナム・ウンの妾の家で、ナム・ウン、シム・ホセン、イ・ジクらと会って酒を飲んだ。彼がナム・ウンの家で酒を飲んでいるという情報を入手したイ・バンウォンはすぐに少数の刺客を率いて、ナム・ウンの妾の家に向かう。

チョン・ドジョンは、神德王后カン氏が生んだイ・バンソクを世子に立てた事により、イ・バンウォンと対立することになった。これに恨みを抱いたイ・バンウォンは、ハン氏のすべての王子を宮に呼んだ後、神德王后の王子を殺す計略を立てた濡れ衣をチョン・ドジョンに被せて殺害した。しかし、イ・バンソクの世子冊封はチョン・ドジョンではなく、太祖・李成桂がしたことであり、チョン・ドジョンが王子らを暗殺しようとした計略の実体は事実無根である。

「朝鮮王朝実録」によると、最後に至ってチョン・ドジョンは、自分の命を請うたと記録しているが、勝者の立場でイ・バンウォンが彼を卑劣な人物として貶めたものである。しかし「朝鮮王朝実録」の後半にこれと非常に異なる内容を載せた。

チョン・ドジョンの息子:「父上、今出て行かれたら殺されます。」
チョン・ドジョン:「かまわぬ。私もかなり長く生きたが私は殺される理由は一つもない。」


また、「三峰集」には、彼がイ・バンウォンの剣で切られる直前、自分の人生の最後を整理する「自嘲」という詩を残し英雄豪傑な面貌を如実に示している。

操存省察兩加功/志を維持し自分を省みる両方に励みつつ
不負聖賢黃卷中/聖賢の教えを裏切ることなく、
三十年來勤苦業/30年をも苦労し勤めてきたが
松亭一醉竟成空/それらすべてが松亭の一杯の酒で空しく過ぎ去ってしまったなあ。


チョン・ドジョン、自嘲

チョン・ドジョンの二人の息子チョンヨンとチョンユは父を救うために駆けつける途中殺害され、しばらくして甥の鄭澹(チョンダム)は伯父といとこの死の知らせを聞い家で自害した。長男チョンジンは当時太祖を随行して、三聖齋訪問の道を随行しながら、安辺郡ソクワン寺に滞在していて奇跡的に助かった。



以上で終了です。
結局、チョン・ドジョンは1392年に朝鮮を建国し、あらゆる国の制度を制定し
城まで築き・・・
1398年10月6日、56歳で無念の死を遂げます。
たった6年の間に彼が成し遂げた偉業は評価されて当然ですね!
(イ・バンウォンの政敵であったため、長らく反逆者として扱われていた)

そしてこのような妥協を許さない熾烈な性格~^^;;;を演じさせたら世界一!

ウリペウ ファイティン!
김명민님 화이팅!!!


あ、それとこんなつたない訳ですみません。(^^ゞ
間違い(とくに漢字が)が多々あると思いますがお許しを~
大きな間違いが見つかったら都度修正いたします。
お気づきの方、ご一報いただけると助かります。


정도전의 생애 チョン・ドジョンの生涯 (Wiki翻訳)④ - 2015.09.21 Mon

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ルバーウィークですね。
皆さんはお出かけでしょうか?
私はおうちでこもってます^^;;
お天気もいいし、どこかでかけようかな・・・・

その前に昨夜の続きを!

しっかし、チョン・ドジョン先生、寝てないよね。これきっと。
寝てない・・・寝る暇ないでしょ・・・

国防力の強化と明との葛藤

1395年1月鄭摠などと一緒に「高麗國史」を編纂。朝鮮創業に成功したチョン・ドジョンは、世子冊封に続く新しい国の文物と制度の整備に着手した。 6月には、国の統治規範である「朝鮮開国典」、中国と韓国の歴代帝王の治績を盛り込んだ「経済文鑑」と「経済文鑑別集」などの編纂を主導し、新しい国政の大要と管制など、すべての制度と文物の枠組みを準備した。また、「経済文鑑」と「経済文鑑別集」には、政治制度・宰相・臺官・諫官・府兵制度・監司などの業務と人事、行政、実務を論じた。続いて国防力の強化と高句麗古都修復のための工兵制度を導入、群の統帥権を国に帰属させるため、私兵を廃止した。また租税受給の安定を通じ国家財政の健全性を確保するために耕者有田の原則に立脚した科田法を断行するなど革新した。しかし、過度で急進的で、一方的なチョン・ドジョンの政策に対して太祖は彼の上訴を受け入れるのをためらったし、徐々に反発する人が増えていった。

1395年3月には再び判三司事に復帰した。

1395年、一部の反発勢力による国家機密漏洩により余裕のない朝鮮は明との外交紛争に足首を掴まれてしまった。新興国朝鮮の一新を警戒した明の皇帝朱元璋(チュウォンジャン)は朝鮮の正朝表箋の文言に明を冒涜する文句があることを問題視して太祖にチョン・ドジョンを自分に渡すように要求した。これに太祖はチョン・ドジョンは病気にかかったとか、歳とっているなど、さまざまな理由を言って明の召喚に応じなかった。しかし、朱元璋は継続して、彼の召喚を要求し、これを補うための措置として門下侍郞贊成事をはじめとするすべての公職から退き東北面都宣撫巡察使として起用された。


漢城府の都市整備
遷都が確定し断行された頃、彼は明に使節として往来し、1394年から2年間、チョン・ドジョンは漢城府の都市整理を推進した。

1395年(太祖4年)には、都城築造図鑑という官廳 を設置、城を築くための基礎測量をするようにしており、総責任者は、チョン・ドジョンがなった。 1396年から築城を始め、1年で完成した。ペガク山頂上を起点にして、東に漢城府市内を回ってペガクに至る城郭は5万9千5百尺(18kmぐらい?)、そのうちの土城が4万3百尺、石城が1万9千2百尺、高さ40尺2でチョン・ドジョンは、この数値を正確に計算、把握しており、工事期間は、夏と冬に農繁期を避け、2期に分けて工事を行った。工事は2年で完工した。

生涯の後半
イ・バンウォンとの葛藤

チョン・ドジョンは、自他公認の海東(朝鮮のこと)の張良(中国の政治家であり軍師)というあだ名を持っていた。彼は自分と李成桂の関係を高祖劉邦と彼の参謀張良に例えたが、劉邦が張良を利用したのではなく、逆に張良が劉邦を利用したという話を必ず付け加えた。この話は劉邦が張良を利用して漢を建国したのではなく張良が劉邦を掲げ、自分が希望する帝国を建設したという意味で、自分も太祖を掲げ、自分が希望する新しい王朝を建設したものであり、朝鮮建国の実質的なプランナーが、まさに自分という意味である。しかし、このような彼の主張は、ポウン鄭夢周(チョン・モンジュ)などを排除したイ・バンウォンをはじめとする王子たちの反発を招くことになった。

チョン・ドジョンは、王様は世襲される責職であるため、愚かな王が出てくるかもしれないと予想した。チョン・ドジョンは、幼い世子パンソグを教育し、宰相が中心となる王道政治(宰相政治)の実現を夢見たが、王権と自分の立場が弱体化していることを恐れたイ・バンウォンは後日兵を率いて急襲し、チョン・ドジョンを殺害し、加え世子パンソグも殺害した。


これだけ、急激に改革を進めたら、反発もくらうでしょうね・・・
理想に燃えて次から次へと・・・
しかしながら人心を掌握できなかったのが彼の弱点だったようですね。

最近、思うんですけど
・仕事がすごくできる
・人のマネジメントが上手にできる

この二つが両方できる人ってまあ、いないんだなあと・・・


Wiki翻訳は続きます・・・・




정도전의 생애 チョン・ドジョンの生涯 (Wiki翻訳)③ - 2015.09.21 Mon

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ごいとは聞いていましたが、チョン・ドジョン!
まじですごいです。
1人でここまでやってしまうとは!
圧巻であります~!
李舜臣チャングンの時も思いましたけど
ミョンドジョン、じゃない、チョン・ドジョンがいなかったら
韓国はいったいどうなっていたんでしょうか・・・

歌まで作曲してるなんて!
どんな頭脳してたんだ~(@_@;)

易姓革命と朝鮮建国
朝鮮の建国(1392年)

6月チョン・ドジョンは初めて召喚されて政治の一線に出て、新しい王朝の創業のための整地作業を断行し、7月17日コンヤン王を瀋陽に引き出し李成桂を王様として推戴し新しい王朝朝鮮を建国した。朝鮮王朝が建国されると、チョン・ドジョンは、王命を受けて新しい王朝の政策方向を提示する17条の<便民事目>を作成し発表した。また、朝鮮建国に反対した政敵ら反対派を一掃した。朝鮮を建国するために一等功臣となったチョン・ドジョンは、門下侍郞贊成事 兼 判義興三軍府事などの軍国の要職を兼務することにより、権力を握って朝鮮の中核勢力となって行政、軍事、外交、教育に至るまで朝鮮の全体的な文物制度と政策のほとんどを直接整備していった。朝鮮の最初の王として太祖に即位した李成桂は国事をすべてチョン・ドジョンに任せた。そしてチョン・ドジョンは、名実共に朝鮮の第2人者となり、建国事業に大きく貢献し、新しい国の文物制度と国策の大部分を決定した。つまり漢陽遷都当時の宮廷と宗廟の位置と都城の基地を定め、各宮殿と宮門の称号、都城の4大門と4小門と城内52坊の名前などを制定した。

国政法案の策定と兵権掌握以降太祖の敎旨を作り、新しい王朝の国政方向を提示し、国功臣1等として大匡輔國崇祿大夫、門下侍郎贊成事 兼 判義興三軍府事として同判都評議使司事、判戶曹事、兼 判尙瑞司事、寶文閣大學士、知經筵藝文春秋館事 兼 義興親軍衛節制使を兼職して政権と兵軍をすべて掌握した

7月20日都評議使司使 兼 尙瑞司事になる。 7月28日佐命功臣に登録され門下時と門下侍郞贊成事義興親軍衛節制使に任命された後、奉化君に君の号を与えられる。

新しい王朝を開いた太祖・李成桂は即位した一か月後に首都を移す決心をした。最初は国の名前も改めず首都もそのまま開京にするつもりだったが何かを悟ったのか遷都を決め、候補地を選び始めた。一番最初に候補地に挙げたのは鶏龍山(ケリョンサン)だった。李成桂はすぐに宮殿の場所を作り始めた。しかし、鶏龍山遷都を反対する上訴が上がってきた。 「あまりにも狭くて、民が入って生活しづらく、土地が肥沃せず、交通が不便で金剛が遠く民が苦労する」という理由だった。鶏龍山の反対上訴が上がってチョン・ドジョンらも鶏龍山への遷都を反対し太祖は新しい吉地を選定することにした。

1392年10月明に派遣される謝恩使 兼 計稟使として明に行き朝鮮建国の正当性を訴えて承認を受けてきた。 12月には門下侍郞贊成事になった。

1393年(太祖2年)7月の門下侍郞贊成事として東北面都安撫使となり辺境に出征して女真族を討伐、懐柔して戻ってきた、漢城に戻ってきた後、<文德曲>・<夢金尺>・<受寶>などの樂詞3編を作り、王に創業の困難さと守成の難しさを反省する時に使われる材料として使うように勧告した。 1393年9月判三司事となる。 10月慣習都監判事を経て、1394年(太祖3年)1月判義興三軍府事として兵軍を掌握して兵制改革の上訴を上げ、3月の慶尙全羅楊廣三都都摠制使になり、地方の兵軍まで掌握した。

システムと官制の整備

チョン・ドジョンは朝鮮が備えるべき政府の形態と租税制度はもちろん、法律制度の基礎を作った、仏教を排斥して儒教を国の統治理念として確立させた。また、チョン・ドジョンは首都遷都を決定し、首都移転を断行した。

朝鮮の建国直後から、彼は 「朝鮮経国典」を編纂して、新しい法制度の枠組みを磨きながら、都を移し、新しい王朝の姿を高めることを計画しつつ、經濟文鑑を執筆して宰相、臺諫(テガン)、守令、武官の職責を確立した。また、明の貢物要求が強まると、揺動征伐を計画し、軍糧米を確保、陳法、訓練、私兵廃止などを積極的に主張、推進して兵権集中運動を広げていく。

また、奴隷(ノビ)解放にも多くの努力を傾け、兵制を大幅に改革して陳法・陳圖を作成し将兵を訓練して、1397年(太祖6)に東北面都宣撫巡察使となり、現在の慶源:咸鏡北道地方に行って城堡を修理し、州・郡と宿場を確定した。

チョン・ドジョンは、高麗末 排佛論の火付け役として仏教に替わる思想として儒教性理学を指定した。彼は儒教として文敎を統一しようとし朱子学で迷信と思われる[仏教]と老子敎、シャーマニズムなどを圧倒しようと躊躇せず攻撃を加えた。仏教の慈悲は表の親しさと裏の内面があることによって差があり、仏教は人類の自然の性情に違反して、社会組織を破壊するものであり、釈迦が人世を離脱して、自立自営しようとしなかったことは、他力に従って寄生しようとしたもので、特に禅宗のようなものは人心を眩惑する魔宗、とまで批判したが、誰もそれに対応する仏教人がなかった儒学の大家であった。また、彼は儒教を伝播しようと朝鮮王朝の制度と禮樂の基本構造を作成した <朝鮮経国典>・府兵制の弊害を論じた<歷代府兵侍衛之制>の編纂を開始した。

1392年8月から、彼は新しい都建設の必要性を力説したが、これは高麗の旧臣と世族が潜んでいる開京(ケギョン)は新王朝定着に悪影響を及ぼすということが彼の見解であった。 1394年8月から開京を離れ新しい都建設を推進して、漢陽(ハニャン)を新しい王朝の都として定めた。

漢陽を朝鮮の新しい首都として決定したのはもちろん、漢陽の都市設計にも重要な役割を果した。景福宮の位置もチョン・ドジョンが決めたのだという。無学大師は今の仁王山を主山に宮殿を立てなければならないとしたが、チョン・ドジョンは反対した。彼は無学大師が推薦した場所は、東向きであり、敷地が狭すぎて王道として適当でないと主張した。結局チョン・ドジョンの意のままに景福宮は、現在の位置に立てられるようになった。漢城府の各宮廷と殿閣(王様の住居)、門の名前を付け道路、水道の行政分割も決定した。 1394年漢陽遷都の地図と監督を並行しながら、新しい社会にふさわしい思想として儒教性理学を正式な国の宗教として採用すること主張し、その年に<心氣理篇>を建て、仏教・老子教を批判し儒教が実践徳目を中心とする人本主義思想だと主張した。

太祖の許の下、宗廟と司査、宮廷の敷地などが立てられる場所を決めただけでなく、様々な宮廷と各殿閣の名前はすべてチョン・ドジョンが自ら名付けた。彼は殿閣と通りの名前を付けるとき儒教的徳目が現れるように、<勤政>、<仁政>などの言葉を使用した。また、漢城の4大門と4小門の最初の名前と現版(印刷版)を作ったりもした。そのほかにも、宗廟(朝鮮・韓国の歴代の国王・王妃・功臣などを祭っている所)の祭礼法と、音楽もチョン・ドジョンが制定したものであった。特に<モングムチョク>(夢金尺)、<スボロク>(受寶籙)、<ムンドクゴク>(文德曲)など、数多くの楽章を作曲し太祖の功徳を称賛したが、この楽章は、朝鮮王朝5百年間宮廷で演奏された。


朝鮮建国(1392年以降の政権闘争)
世子冊封問題

世子を誰に任命するか問題になる当初の議論は、「時が太平の世であれば、長男を立て、乱世であれば功の多い王子を立てなければならない。」という原則を提示した。しかし、神徳王妃 カン氏は、自分の息子を皇太子に冊封することを切に願い、太祖・李成桂もやはりパンソグを寵愛していたので、ペ・グンリョムはじめとする大小の臣僚たちは、太祖の考えに従い8番目の息子パンソグを世子に決定した。太祖の前妻、神懿王后韓氏の子で5番目のイ・バンウォンは政治的野心が最も大きかったため、このことに激怒した。また、他の前妻の王子たちも、自分たちを排除して、後妻である神徳王后康氏の末っ子パンソグが皇太子になったことに、皆憤慨した。これが後に「第1次王子の乱」の原因となった。太祖がパンソグを世子にしようとするとチョン・ドジョンはすぐに世子侍講院貳師の一人となって皇太子の教育を担当した。

冊封とは:中国の周辺国の王が、中国皇帝に貢物を捧げて、皇帝の名の下にその国の王様であるとお墨付きを貰う事。


つづく・・・・

정도전의 생애 チョン・ドジョンの生涯 (Wiki翻訳)② - 2015.09.12 Sat

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동판도평의사사사 トンパントピョンイサササ 
판호조사 パンホジョサ
판상서사사 パンサンソササ
보문각대학사 ポムンガクデハクサ
지경연예문관춘추관사  チギョンヨンエムンガンチュンチュカンサ
의흥친군위절제사 イフンチングンウィジョルジェサ


呪文じゃないのよ~

これチョン・ドジョンが歴任した、官職名の一部なんですけどね・・・・
もう~頭痛いわ~(@_@;) ジュゲムを超えとります・・・
いったい誰が考えたんでしょうか・・・

朝鮮を建国してから3年の間にどれだけ役職変わったのか・・・・
内容を調べる余裕もなく、ただひたすらNAVER知識辞典で漢字を探しました・

トンパントピョンイサササ←?サが3つもあるけど、ひとつ「サ」が多いんじゃ?

トンバントピョンイサ ササ
同判  都評  議使 司事
合ってるみたいです・・・
何する人なのかわかりませんが・・・(;_:)

こんな感じで格闘中・・・

※後で続けて読めるようにカテゴリーを別に作りました~。(チョン・ドジョンの生涯)


長いので下に・・・

李成桂との出会い(1383年)




정도전의 생애 チョン・ドジョンの生涯 (Wiki翻訳)① - 2015.09.06 Sun

ミョンドジョンナオシオmono500

本のウィキペディアにも3ページ分の要約がありますが、
ここはひとつ!(ポン!)←机をたたく音^^;;
本家のWikiを訳してみようと思い立ちました。
ページ数で約10数ページ。
子供の頃はちょっと飛ばしまして、科挙合格から最期の瞬間まで・・・・
少しずつ訳してあげますので時間かかります。
なにせ、この官職の固有名詞のややこしいことと言ったら!あ~た!(ポン!)←机をたたく音^^;;;
歴史ドラマの字幕翻訳がどれほど大変か・・・・(*_*)

韓国のWikiはこちら

정도전(鄭道傳, 1342年誕生~1398年 10月 6日(陰暦 8月 26日)イ・バンウォン配下に殺害される)
※日本は・・・足利尊氏が室町幕府を開いたのが1338年(日本史も勉強しないと(^^ゞ)

科擧及第と官僚生活初期
恭愍(コンミン)王の時代1360年(恭愍王9年)成均試に合格したのに続き、2年後に1362年文科同進事に合格し1363年官職に就いた。その年忠州司録충주사록を経て典敎寺主簿전교시주부・通禮門祗候통례문지후を務めた。その後、成均館で鄭夢周(チョン・モンジュ)と明倫堂で儒学を論じ儒生たちを育成、成均館博士、太常博士などの要職をあまねく経て出世をした。

しかし、彼の役人暮らしは順調ではなかった。恭愍王が辛旽(シンドン)を起用すると、彼は官職を捨てて三角山旧家に都落ちして隠遁生活をし、父チョン・ウンギョンと母タニャン ウ氏が1月と12月に相次いで逝去しヨンジュで3年間墓守をしながら学問研究と教育に力を注いだ。当時の官僚と知識人たちは百日忌み明けが一般的な慣行であったが、彼は家礼に応じて3年喪に服した。 1369年秋、親の3年喪を終え三角山旧家に戻ってきた翌年12月、官職に復帰した。

辛旽(シンドン)の死と成均館講学
1370年成均館を再建して、その年、師首はイセクが大司成になると、彼は師匠イセクと友人の推薦で成均館博士となった。成均館の博士でありながらポウン鄭夢周(チョン・モンジュ)ら教官と毎日のように明倫堂で性理学を授業、論じた。再び70年禮曹正郞 兼 成均太常博士となり銓選(官職選考制度)を管掌した。また、権門世族を警戒し、新しい人材を探していた侍中シンドン(僧侶)によって新進士類が重用され、彼もやはり要職に座っていた由縁で、シンドンの一派として追い込まれたりもした。彼は危険を冒してシンドンの死を哀悼した。 1371年太常博士に任命され、再び禮曹正郞になり太常博士を兼任した。

シンドンが排除された後もチョン・ドジョンは、起用されたが1374年(恭愍王24)ホンリュンなどに恭愍王が殺害され、親明派に属していたドジョンは、再び政治的危機を経験した。その後の政局は親元派と親明派が対決していた。この時、彼は成均館で性理学を講学しながら、一方では、鄭夢周などと一緒に明との外交関係を深めることを主張した。

以降、彼は恭愍王の腐敗と堕落を擁護したり、黙認する権門世族が王の目と耳を覆い隠すと批判を加えた。 1374年恭愍王がホンリュン等に暗殺されるや、彼が事実を明に告げることを主張したがイ・イニムなどの恨みを買った。

親元派、権門との葛藤
この時、彼は富と権力を独占した権門から田畑などの農地は、実際に農作業を建てる農民に与えられるべきだと主張して権門の怒りを買った。また、彼は寺院経済の膨張と乱れが政治、経済、社会の弊害が深刻すれば、仏教の排斥を主張した。

1375年(ウ王1年)成均司藝성균사예·・知製敎지제교になった。同年元朝使者が来たときに元の時代の使者を迎え入れる問題で朝廷では、新進士大夫신흥사대부と権臣たちの間で対立が起こった。イ・イニムとジユンなどは使者を迎え入れようと言ったのに対し、ドジョンをはじめとする新進士大夫はこれに反対した。しかしイ・イニムなどは、彼らの主張を退け、北元の使者を迎える準備をした。イ・イニムはチョン・ドジョンを迎接使として任命し送ろうとした。しかしチョン・ドジョンは、使者迎接を拒否した。
こうした中、北元使者を迎える迎接使として名指しされた人物はドジョンだった。チョン・ドジョンは、使者の首を刎ねるか、さもなければまとめて明に送り返してやる。」と意志を曲げなかった。イ・イニム・慶復興などが親元政策に戻そうとして元の使者が明を打つための合同作戦を考え、朝廷に働きかけると、チョン・ドジョンはこれに反対した。そしてドジョンはイ・イニム、軽復興などの権臣の怒りを買って羅州の属県である會津縣 居平部曲회진현 거평부곡に流刑された。流刑地で彼は性理学に関連する書籍を研究し、同里青年子弟らに学問を教えた。

流刑にむち打ちまで合うところだったが、同じくして起こったソッキの乱のために余裕もなく杖刑は受けなかった。

流刑と学問研究
流刑になった中彼はいろいろな種類の人身誹謗に苦しめられた。彼が落馬すると四方からその誹謗が絶えなかった。彼はそのような誹謗はつまらないやからのすることだと軽く受け流した。しかし、彼を憎らしく思う妻の手紙を受け取るようになった。

「あなたはいつも熱心に読書に没頭して、朝ご飯がなくなろうがお粥がなくなろうが構わない。家の中には少しの米もありません。たくさんの子供たちは、食事のたびにお腹が空いたと泣いて、凍える日は寒いと泣き叫びます。私が生計を預かって、その時々の手段を考えて苦心しながらも、あなたが熱心に勉強されるのでいつかは立身出世して、家の中の栄光を持って来ると期待していました。しかし、栄光どころか法に触れて名前を汚し体は南辺境に流され家門がつぶれました。世の人々の笑いものになったけれど、賢人、君子の人生とは本当にこのようなものですか? "
- 妻の手紙


「あなたの言うことがすべて正しい。昔の私の友人は、兄弟たちよりも情がより深かったが、私がこの状況になると、浮雲のように散ってしまった。これは、彼らが元来線で結ばれたのであって情で結ばれていないわけだから私は恨まない。しかし、夫婦は一度結ばれると、死ぬまで直すことができないのだから、あなたが私を叱責することは私を愛しているからであって嫌いではないものと私は信じている。また、妻が夫に仕えることは、臣下が王に仕えることと同じだからあなたが家を心配して、私が国を案ずることは何が違うのか?私はただ私の意に忠実にするだけだ。成否と栄辱と得失は天が定めるもので人にあることではない。私が何を憂うというのか? "
- チョン・ドジョンの返信


チョン・ドジョンは妻のせいにしていなかった。チョン・ドジョンは、妻に大義について語らなかった。ただし、自分の意のままに進むと、天が助けてくれることもあると言った。彼は自分を捨てた友人の愛憎は既に整理された感情だった。流刑地にいる彼に着実に安否を尋ね手紙を送り慰めてくれる友人は鄭夢周など少数であった。

釈放と教育活動
1377年に流刑から解放れ4年間 ソンヒャン ヨンジュとアンドン、チェチョン、ウォンジュなどを行き来しながら流浪し過ごした。その後1381年秋、居住が緩和されると三角山旧家に戻ってきた。1382年出家し「三峯齋」と呼び、学問と教育に力を注いだ

しかし、権門はチョン・ドジョンを危険人物として見て、警戒を緩めなかった。全国から多くの学生(弟子)が殺到し、教育の楽しさを享受したが、それもまた長くは続かなかった。ここの出身である宰相が三峯斎を壊してしまったからである。それで弟子たちを率いて富平副使のよしみを頼って富平部南村に引っ越し後世教育事業を再起したが、ここも宰相王某が別荘を構えると言って寮を閉鎖した。蔑視と迫害が続き、再び京畿道金浦に引っ越さなければならなかった。

流刑と流浪の歳月を通して鄕民と士友に物乞いをしたりもし、自から農業もした。この時、彼は貧困と飢饉で死んでいく民と彼らを搾取する権門世族の横暴と寺院経済の膨張で国家経営の存廃危機状況に直面し、一帯の改革の必要性を切実に願った。

奥さんとの手紙が笑える~こんな人旦那にしたのが間違いでしょ~
こんなに切実に訴えてるのに「私も国を案じておる。だからあなたと同じ」だって(笑)「暖簾に腕押し」。(@_@;)

続く~

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SAMTA

Author:SAMTA
横浜在住
韓国ドラマ・映画好き
韓国俳優キム・ミョンミンさんの
カンマエに嵌ったのが2009年5月。
それからミョンミン道一筋です☆
韓国語、韓国料理など韓国文化全般に
興味があります。☆

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